蔵癖(くらぐせ)とは
蔵癖(くらぐせ)という言葉を、聞いたことはあるでしょうか?
酒蔵は全国津々浦々に存在する酒蔵は、一つとして同じ環境のものはありません。
地域によっての気象条件はもちろんのこと、建物の素材や規模、道具の種類や配置、仕込水など、様々な要素があります。
タンクの配置、通気の方向、道具の材質や形状、あらゆる要素が連関して最終製品の品質に影響を与えます。
最近では、とてもオープンな技術情報交換が行われるようになってきました。
しかし、共有できるレシピをできるだけ揃えて同じように仕込んでも、全く同じ酒ができるかと言われれば全くそうではない。
米や配合・温度帯など同じにしても、仕込水が違うから異なる等、その原因も推測はできますが、蔵癖というものの複雑怪奇な要素までは読みきれない。
だからこそ、面白くもあるのです。
各地の酒蔵の酒造りを経験する杜氏は、新たに酒蔵の酒造りに入る時、まずその蔵癖を掴むところから始まります。
熟練の杜氏をもってしても、蔵の良い部分と悪い部分を見極めるのに、およそ3年はかかると言われているのです。
杜氏の技術も、ある蔵では通用しても、別の蔵ではすぐに上手く行かないというのは、当たり前のことでもあるのです。
熟練杜氏の感覚
日本酒は、ワインやビールと異なり、造り手の技術の要素が大きな割合を占める醸造酒であると言われますが、
その「造り手」とは、ともすれば全てをコントロールできる全知全能の指揮者のように捉えがちですが、
つまるところ、目に見えない微生物含む環境とともに呼応しながら歩む存在であるように思います。
熟練杜氏の方々は、皆口を揃えて「人間ができることなどほんの僅かで限られている」「人間がしゃしゃり出る世界ではない」等とおっしゃいます。
人間は、環境を制圧する上位の存在であるかのような感覚は、そこには微塵も感じられません。
もちろん、誰しも科学的な制御・コントロール、酒質の予想通りの完全設計を目指す道を歩んだ後に味わう境地のようです。
熟練杜氏のこうした感覚というものは、自然に対する畏敬の念に通ずるように思います。
酒造りは、未知の領域も多い世界であるがゆえに、西洋医学と東洋医学の対比や、対症療法などの比喩がよく使われます。
たとえば、西洋医学では、悪い部分をピンポイントで解決するように投薬や手術で、治療し、その部分的な機能を回復しようとします。
一方、東洋医学では、体の不調を内側から(一見すると悪い部分とは全く異なる場所から)根本的に治す発想の治療法です。
酒造りは、歯車のようなロジカルなプロセス分解で醸造工程を語ることができないため、
局所的な問題解決が、そのまま酒質の向上に繋がるとも全く限らないのです。
要素分解する科学的アプローチも非常に重要で効果的ではありますが、
何故か解決できない壁にぶつかり何年も悩むことも多々あります。
もしかすると、今まで前提として疑っていなかったこと、たとえば「見極めていたと思っていた蔵癖」が変化している可能性もあります。
そして、蔵癖というのは、局所的に切り出して語れるものでもありません。
一度見極めたと思っても、終わりではなく、微生物も人も環境も年々変化している。
終わりのない、対話と共生の感覚を大事にする必要があります。
「造り手を取り巻く環境も原材料の一部である」という感覚は、大事にしたいと考えています。
10月に入り、蔵の仕込みも始まってまいりました。
酒蔵の中も冬にかけてお酒の香りがだんだん染み込んでいきます。
西堀酒造六代目蔵元:西堀哲也